奥の細道・仙台 2
 宿泊地・国分町と東照宮
■宿泊地・国分町
新暦6月20日(−24日)名取川を渡って仙台に入る。丁度5月5日の端午の節句の前日のあやめを葺く日であった。
泊まる所を探して4、5日とどまった。この地に絵師の加右衛門という少しばかり風流心のある人物が居り、知り合いと
なった。この者が「長年、名前ばかりが知られていて、場所がはっきりしない名所を調べておいたので、ご案内します」
と言って一日案内してくれる。

芭蕉は、大淀三千風に会おうとしたが、既に仙台を離れていた。
大淀三千風は、1639年伊勢射和の商家に生まれ実家で精を出していたが30歳の1669年に松島に来る。15年ほど仙台、松島を拠点として仙
台俳壇の基礎を築き、1683年全国行脚(後に「全国行脚文集」を刊行)に出る。晩年は故郷に戻り1707年69歳で永眠する。名前の三千風は、
当時流行した一昼夜の内に句を幾つ詠むか?で、3000句を詠んだ事に由来する。
仙台藩四大藩主伊達綱村の時に、仙台領内の名所・旧跡が整備されたがその中心的役割を果たしたのが三千風で、絵師の加右衛門もこ
れに参加した。

曾良日記に出てくる「大町」「国分町」の交差点にある「芭蕉の辻」  Map

『芭蕉の辻』と道標。芭蕉の辻は、松尾芭蕉とは関係の無い地名です。「場所の辻」(=繁華街なので人目につくよう
辻札が立てられた場所、待ち合わせ場所)が訛ったとか、芭蕉の木が植えてあったからとか言われている。
左は現在安田生命ビルの前に有る芭蕉の辻標と、「南 江戸・日本橋まで93里」の表記のある道標。
右は、当時の様子を表すレリーフ。
大町通りは青葉城・大手門から東に城下を走る道、国分町通りは奥州街道が走る通りで当時は、御城下の繁華街
だった。この芭蕉の辻、今は、地元「七十七銀行(明治時代は本店が有った。今は支店)」や日本銀行仙台支店が
ある。写真左は、日銀前にある道標。  右は、今は夜の繁華街となっている国文町の通り。
大町の通り。左は芭蕉の辻から東側の風景。日銀仙台支店と奥に「大町商店街」のアーケードが見える。
右は、同じ場所から西側の風景。青葉通りと併行して走るこの通りは、青葉城大手門に通じる。右に見える
のが辻標&道標。
  ■ 東照宮
 芭蕉一行は、宮城野方面に見学に出るが、先ずここ「東照宮」に参る。日光東照宮と同じ名前。
仙台藩二代藩主伊達忠宗が建立、徳川家康を祀った神社です。
当初、天下取りを狙った第一代藩主政宗、後年は家康の良き相談役になった。
左は拝殿、右は本殿。本殿の前に有るのが唐門と「透塀(すかし)」です。本殿そのものは良く見えません。
一向は、東照宮から『玉田・横野』を見たとなっているが、今では場所が特定できません。
いつか見た書類では東照宮の北東側とされているが写真左の通り今は、仙台を代表する「小松島・旭ヶ丘・南光台・
鶴ヶ谷団地」に開発されていますのでそれらの丘陵地帯かな?と想像するより他有りません。

 そして、榴ヶ岡(つつじがおか)方面に向かいます。

右の写真は、東照宮参道から南側の「宮町」と言われる門前町。今は、この先JR仙台駅の構内で切断されています
が当時は、今の荒町地区まで真っ直ぐな通りになっていた。この通りは、青葉城を中心とする旧・ご城下と、伊達政宗
が隠居後一代限りとした居城(現在の仙台市太白区古城:宮城刑務所)を中心とする東南部の「副都心」のような形
の第二の城下町との境界線になっています。
 つつじが岡、木下、薬師堂などはこの通りから左手の方にあります。