■番外編
  芭蕉は隠密(忍者)だった?
 芭蕉は隠密(忍者)だった?

こんな説が有ります。
忍者と聞くと子供の頃、超能力的な事を実現する忍者
漫画に心躍ったものでした。

■芭蕉隠密(忍者)説の根拠
 ・元々の生まれが伊賀の忍者であった
 ・亡くなった後、所持品を見たら忍者の道具があった
 ・「奥の細道」の路銀調達に当局の補助があった
 ・仙台藩等、数箇所の視察が副次的な目的であった
   当時、東照宮修復命令が下っていた仙台藩に幕府
   に対する反抗心があった
 ・仙台藩内での芭蕉の行動に不審な点がある
   青葉城の大手門から堂々と入っている
   「地図」を見ながら仙台藩内を歩いている
   紀行目的地である松島などで俳句を詠んでいない
 ・「奥の細道」の命名は、みちのく全体の(遠いひなびた地方の)『道』の表現のように捉えられているが…
   実は、仙台藩内仙台の外れの山際の「細道」から採用している⇒この辺に、紀行のサブ目的が現れている。??
 ・超人的な距離を歩いているときがある
   比較的ゆっくり歩いている日もあるものの、時々60km等の超人的距離を歩いている。忍者なら歩ける距離
  【写真 仙台市宮城野区岩切 にある『おくのほそ道』碑。 この付近の山道を奥の細道と言っており、これから取った】
 問題の仙台藩のおさらいをして置くと。
初代藩主・伊達政宗は、『遅くやってきた天下人』と言われる。天下取りを目論んでいたが時既に遅し…徳川家康に
よってほぼ日本は押えられ、もはや天下取りの機会は失われた。
 伊達政宗は、現在の山形県置賜地方・米沢市で生まれた。【写真左 米沢市の上杉雪灯篭祭り会場となっている城址】
伊達家は山形県南部、福島県中通りを所領していたが、秀吉によって現在の宮城県に移され北部の岩出山に居城
を作る。初代仙台藩主の誕生である。その後、旧領を奪還し管理するには仙台が適当と、仙台にその居城を移す。
 1613年、ローマに慶長使節を【写真右 石巻市に係留されているサン・ファンバウティスタ号の復元船】送るが、書状では奥州王
を名乗り、幕府に万一あった場合は、次の将軍になるなどと記載されていた。 この辺にも天下取り意欲が見られる。
 徳川家康をして『味方に付ければ役立つが、敵に回し
たら厄介だ』と言わせた政宗も、次第に徳川に迎合して
行く。仙台に東照宮(家康を祀る)を造営したのもそんな
意思表示の現れである。【左の写真の右】


 さて、芭蕉が仙台を訪れた辺りの状況を見てみるとし
ましょう。
 遡る事、30年前。仙台藩は水道橋【写真の東京ドームの有る辺り】から柳橋までの神田川に架かる橋の改修を命じられ、
20万両=仙台藩歳入の3年分の負担を強いられた。
 
 そして、芭蕉が旅立った頃、日光東照宮の補修を命じられ作業していた。
この時の費用は、10万両とか言われており公表62万石、実質100-120万石の仙台藩にとっても財政にかなりの負担
となったことは事実。3万両は京都で借金して来た。
 地方大名が力を付けないよう徳川幕府がとった『財政疲弊策』に、4代藩主・綱村が不満を漏らさないはずが無い状
況でした。
 芭蕉が訪れる18年前、伊達・仙台藩にピンチがやってきます。お家騒動(下記参照)です。
結果的にはお家存続になりましたが、初代・伊達政宗が後年、徳川との柔軟策を取り、三代徳川将軍家光の良き
ご意見番までの地位を築いたものの…、徳川にとってやはり『注意の必要な藩』だったように思えます。

【写真 上の左=政宗の廟所 瑞鳳殿、 上の右=三代藩主綱宗の廟所 善応殿】
【写真 下の左=このホームページタイトル『千本桜』のネーミングを取った一目千本桜と伊達騒動の重要人物・原田甲斐の居城 船岡城址。 
 写真 下の右=小説『樅の木は残った』のモデルとなった船岡城址公園にある 樅の木。小説では、原田甲斐擁護の立場をとっている 】 
■伊達騒動  『伽羅先代萩(めいぼく せんだいはぎ)』
当時、伊達藩は、前3代藩主綱宗が素行不良のため隠居させられた。
家督を継いだのは、2歳の幼い4代藩主伊達綱村でした。伊達兵部(だて ひょうぶ)が藩主の後見役として実権を握り、家老原田甲斐(はらだ 
かい)とともに実際の藩政を動かしていました。
これに保守派の伊達安芸(あき)らが反発、両派の対立が深まります。伊達安芸は、自身の境界争いに対してなされた伊達兵部の裁定に不満
を持ち、兵部一派が悪政を行っていると幕府に訴えていました。
1671年3月27日、その尋問が、幕府の酒井大老邸で行われました。そのとき、形勢不利な原田甲斐が控室に戻り、伊達安芸を斬り、その原田
甲斐は、柴田外記(げき)に斬られるという刃傷事件が発生しました。当事者のほとんどが死んでしまい、あやふやなまま「伊達騒動」が決着し
てしまいました。
この結果、原田家は、男子は皆斬られ、お家断絶となり、生き残った伊達兵部は四国の土佐に流されますが、仙台藩62万石にはおとがめなし
となります。これが伊達騒動です。

これをモチーフにしたのが、歌舞伎の伽羅先代萩です。 
※当サイト『ぶらり仙台』の周辺紹介の中に『樅の木は残った』頁があり、同文です。
 だいぶ、芭蕉隠密説 から寄り道をしてしまいましたが…

 どうも仙台藩内での行動が可笑しい。と思われるの一つ目が、岩沼の二木の松「武隈の松」と、名取の藤中将実方
の墓所「笠島」の訪問順序。(結果的に笠島訪問はしていませんが)
仙台藩内に入り、北上していくと岩沼の方が南で、岩沼⇒笠島⇒仙台のコースが自然なのですが、何故か笠島⇒岩
沼のコースを取り、しかも一句『笠島はいづこ五月のぬかり道』を残して笠島訪問は諦めている。
 その二つ目が、青葉城(仙台城)の正門・大手門から堂々と入っている。=日光東照宮の修復状況を視察後とて
何かを伝える為城内に入ったのではないか?という疑問。
曾良日記に寄ると大手門のところから家祖伊達朝宗以来の伊達氏の守護神、亀岡八幡宮に通じる参道があり、
ここを通って参拝したとなっている。現在も同じルートで八幡宮にたどることができる。
 と、すると単に観光目的とも取れる。

その三つ目が地図を頼りに御城下を歩いているのは(当時は藩内の地図は機密書類?)可笑しい?
これは、仙台を案内した絵師加右衛門が松島や塩釜とかの名所を描いた絵図を渡した。それを頼りに仙台の中心
から多賀城に向かう途中、昔の名所「十符の菅」(奥の細道命名の地のところ)を訪ねるくだりに出てくる。
これも、解釈のしようかなと思える。機密書類だったらわざわざ紀行に記述しないと思います。
【写真 青葉城の正門、大手門跡。太平洋戦争のときに焼失し再建されていない。今は石垣と、再建された隅櫓があるだけです】
その四つ目が、憧れ憧れたどり着いた日本三景では
一句も詠んでいない。何か報告事項が有ってそれど
ころで無かったのでは無いか?
 これも松島では感動の余り眠れなかったとの記述
があり、又、この項での文章も多く記述どおりだった
様にも解釈できる。

その五つ目、「道に迷って」第二の都市・石巻に向か
って視察している。
 米の積出港・石巻の様子を予想外の繁栄と吃驚し
ている。
道を間違ったにしても内陸部を平泉に向かうのと、
海岸線の臭いのする石巻行きは分るでしょうしその気
なら、途中から引き返す事も出来たはずで単に間違っ
たのでは無いような気がします。
【写真 左は日本三景松島、四大観・大高森からの景観、
 写真下は、宮城県第二の都市石巻市・元の港。日和山の芭蕉像】
 と、歴史の専門家が一笑に付している『芭蕉 隠密説』を私見を交えて書いて来ました。
全くのど素人である私が結論付けるのも何ですが…。隠密としての役目を持っていたと言えばそのようだし、そう
出ないと言えばそのようにも思えます。
隠密で有ったとしても、芭蕉訪問後に仙台藩に大きな変化が無かった事からすると『視察報告』も歴史に影響の
ある内容では無かったかと思います。

 宮城県内に足跡があることから始めた『奥の細道を訪ねて』。ちょっと気になるのは、宮城県内で詠んだ句が少
ないのと、日本海側に入った後での「芭蕉をもてなす」記述との対比で、冷たい表現をしていること。
 偶々、その当時の米の積み出し港、石巻の写真紹介が最後になりましたので比較して見ると同じ港町でも、山形
県・酒田市では医者で俳人の家にお世話になっていることを記載し大歓迎されたニュアンスを伝えていますが、
石巻では「泊める人も無し」の表現です。(実際には、途中で出会った人から石巻での宿泊の紹介状を貰って泊まっ
ています。)

 この辺のところは、『憧れの平泉に苦労してたどり着いた』との創作的手法を使っているとのことですが…