■松尾芭蕉 奥の細道その前に   小田原町/現 日本橋室町
    
 松尾芭蕉は1644年、伊賀上野(現 三重県上野市)に松尾家次男として生まれ幼名を金作(きんさく)、後の
本名を宗房(むねふさ)と言った。10代末から伊賀付侍大将の嫡子・藤堂良忠に仕えた。良忠は俳諧を嗜み、
芭蕉もこの縁で若くして俳諧の道に入っていった。ところが、頼りにしていた良忠が25歳の若さで急逝したため
伊賀を離れ京都で6年ほど俳諧の修行を積む。
 その後、松尾芭蕉29歳(1672年)の時、江戸に出てくる。
大阪の西山宗因を中心とした俳諧一派『談林俳諧(※)』の人々と交流を持ち、俳号を桃青に改めた。一時心酔
し、35歳頃には宗匠として名を上げた。しかし、独自の道を歩むべく37歳の1680年に深川に移り住むことになる。

※だんりん。軽妙な口語使用とこっけいな内容、自由奔放な作風で人気が有ったそうです。後に芭蕉はこの談林に限界を感じ離脱します。
  

 8年間住んだこの地のリポートを『東京のJyoさん』からリポートいただきましたので、ゆかりの地紹介頁として
ご案内します。

発句也 松尾桃青 宿の春」     

句碑は中央区日本橋室町一丁目、老舗の佃煮屋の店先に建っております。

さくらん坊さんの紀行文の中に、
>1680年、芭蕉は江戸日本橋から深川の草庵に移り住んだ…
のくだりが妙に気になりましたので、この一両日いつもの早朝散歩のコースを変えて日本橋室町界隈まで
足を伸ばしてきました。
この近辺は中央区のマンホールの蓋を探し歩いた場所でしたが、芭蕉の句碑が在るなんて全く知りません
でした(笑)。
そのころは興味が無かった??

芭蕉さんがここ小田原町(現・日本橋室町一丁目)に間借りしていた頃は、「芭蕉」という俳号ではなく、
「桃青」と称していたそうですね。初めて?しりました(恥)。
ここで俳壇の地位を固め、俳諧宗匠になられたと紹介されております。

「奥の細道」には直接の関係ありませんが、深川の芭蕉庵に移住する前の「芭蕉ゆかりの地」として関連付け
るのも一考かな?と思いました。
                                          …2006.1.27 東京のJyoさんのリポートより
↑ 某佃煮屋の店先に建てられている芭蕉の句碑 ↑ 「発句也 松尾桃青 宿の春」
↑ 句碑の説明部分
↑ 「芭蕉の句碑」のアップ ↑ 日本橋の図絵部分